東日本大震災

2012年5月 6日 (日)

震災後の南相馬・暫定開業の常磐道(相馬-南相馬)など

南相馬には震災後何度も足を運んでいますが、常磐道が不通のため東北道からの山越えが必須。そのためスノータイヤをはかない私の軟弱車は冬季の南相馬行きは無理でした。今回は雪解け後初の南相馬行きとなりました。

今回、4月に暫定開業した常磐道の末端部(相馬-南相馬間)を利用してみました。

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暫定開業区間は無料開放されています。

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新しい舗装は平滑でなめらか。

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開業区間はわずか14.4キロ。時間にして10分強。

現在常磐道広野-富岡間が立ち入り禁止区域のために不通です。本来ならば今年の春に開業する予定だった富岡-南相馬間の工事は手つかずのままです。
現在いわき方面から南相馬に入るには一旦東北道(あるいは4号線)を通り、二本松または松川付近から川俣-飯館を経由する、山越えルートに限定されます。

同ルートの昨年の様子はこちら:
川俣村・飯館村~南相馬へのルート・荒れる田畑と大量発生した昆虫

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南相馬市内(陣ケ先公園墓地)に設置されたガイガーカウンター。市役所など数か所に設置されたそうです。放射線量は0.85マイクロシーベルト。

今回は蔵王から福島→伊達→霊山と国道115号線を抜けて南相馬に入りましたが、途中霊山付近(伊達市)は1.3マイクロシーベルト程度ありました。地元の人によれば霊山付近はホットスポットだそうです。

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イオンモール南相馬の隣の広大な農地は300世帯の仮設住宅になりました。

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イオンモール内に設置された東京電力賠償相談窓口。
南相馬市民には条件により一人当たり70~100万円程度の賠償金が昨年東電から仮払いされています。請求すれば仮払いに加え本来の賠償金が支払われることになっています。しかし私の義母、義弟は東京で私の自宅に滞在したため、家賃や宿泊費がかからなかったという理由で仮払金と相殺され、東電に一定額を返金しなければならないという矛盾が生じています。

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イオンモール(写真はフードコート)は一見通常通りの営業のように見えますが、全体的には穴の開いたテナントスペースが目立ちます。市内のスーパー、ファミレスなども歯抜け状態です。

復興への道のりは険しく、少なくとも常磐道とJR常磐線のいわき~南相馬間が全通することが最低限の条件のように思います。放射線量は除染によってそれなりに下がりますが、風向きによっては高くなる日もあるようで、余談を許さない状況です。

2011年8月 9日 (火)

川俣村・飯館村~南相馬へのルート・荒れる田畑と大量発生した昆虫

別記事にもありますが、8月上旬に東京に避難していた義母が帰省するため故郷の南相馬に送ってきました。

東京から南相馬へは常磐道~国道6号線のルートが不通のため、郡山、二本松、福島などから山を抜けていきます。5月には福島~国道115号線~相馬市~南相馬市という大回りで行きましたが(被災地への一時帰宅・南相馬への迂回ルートなど)、今回は郡山に宿泊したこともあって、郡山~二本松~松川~川俣村~飯館村~南相馬というショートカットルートを通りました。現在ではこれが幹線ルートになっているようです。
途中通過する川俣村の一部、飯館村は「避難区域」で原則として住むことができなくなっています。

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田畑は全く手入れされておらず、荒れていました。飯館村は日本の原風景がとても美しい村ですが、残念でなりません。
復興を心から願う・【回想1】大震災被災以前の南相馬・相馬・飯館など

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川俣~飯館を抜けるルートは本来は山越えの細道ですが、今ではいわき、東京方面への幹線ルートとなっており、この通り車の往来が激しくなりました。

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途中立ち寄った飯館村の親戚宅近く。本来は避難区域ですが、高齢者の一部は避難せず在宅のまま過ごしています。この付近は今でも2マイクロシーベルトを超える放射線量が計測されます。

写真ではわかりませんが大きく育った昆虫が大量発生しています。車を止めると5センチ以上に育ったたくさんのアブやハエなどに集中攻撃を受けました。妻は車外に出た一瞬の間に足を大きなアブに刺されました。
雑草が生え放題で農薬散布もないため、昆虫の天国と化しているようです。

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南相馬に到着後、車を除染。放射線に対する地元の人の意識が高まっており、今回は「飯館村を通過する際にはエアコンを車内循環モードに切り替える」、という親戚のアドバイスにも従いました。

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イオンモールはGW明けに再開しました。営業時間が短縮されていますが品揃えはほぼ通常通りで不自由はありません。
しかし2店舗あるヨークベニマル(東京ではヨーカドー)は1店舗のみの営業、ファミレスなどの飲食店も一部を除きほぼ閉店状態で、正常な状態とは言えません。

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閉鎖されている原町高校校舎(イオンモールの駐車場から)。ここの生徒は30分程度北上した相馬市の廃校校舎(旧相馬女子高校)を使用しており、毎日バスで通学しています。

2011年5月 9日 (月)

被災地への一時帰宅・南相馬への迂回ルートなど

ゴールデンウィークの間、南相馬から避難していた義母・義弟が一時帰宅することになりました。そこで一時帰宅する義母らを車に乗せて、その往路、復路、東北方面へ2往復してきました。

往路は義母・義弟を下した後に白石蔵王まで遠征したため、GW中は東北地方2往復、計1600キロほど走行しました。

<一時帰宅・往路のルート>
5月1日 東京(豊島区自宅)→東北道→あぶくま高原道路→福島空港
       (福島空港→南相馬は義母の軽自動車を義弟が運転)

※義母・義弟は3月13日の福島空港からの臨時便で東京に避難したため、南相馬から福島空港駐車場まで軽自動車できていました。

義母・義弟を下しした後、私と妻はゴールデンウィークから営業再開した白石蔵王の「だいこんの花」まで遠征し、2泊とまって東京に戻りました。(白石蔵王『だいこんの花』 Part Ⅳ


<一時帰宅・復路のルート>
5月8~9日
 東京(豊島区自宅)→東北道→福島西IC→国道115号線→相馬→国道6号線→南相馬
 (戻りは逆ルート)

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東京-南相馬のルートは通常、常磐道→常磐富岡(終点)→国道6号線→南相馬(約270キロ・図の右側ルート)ですが、今回常磐道広野~6号線小高付近までは立ち入り禁止のため、図の左ルート(約360キロ)で南相馬に向かいました。通常ルートは3時間半程度ですが、左ルートは最短で4時間半、通常は5時間以上かかります。

東北道から南相馬までは、東北道の二本松ICから川俣~飯館を経由するルートが近いのですが、このルートは計画的避難区域にあたるため間もなく通行できなくなります。現状(5月9日)通行可能ですが、それでも義弟が5月1日に通過した際に3~4マイクロシーベルト程度の放射線量を計測しており、依然として危険な状態にあります。放射線を望んで浴びる人はまずいないでしょうから、ここの通過は避けるべきでしょう。

<5月1日・【往路】福島空港へ>

東京から福島空港へ向かう場合、矢吹ICからあぶくま高原道路に入ると早いのですが、あぶくま高原道路は地震の被害が大きく凸凹で、50キロ以上の走行は危険です。

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ごらんの通り、道路が波打っている状態です。

ちなみに東北道の白河~本宮間も状態が悪く、高速走行していると時々車がジャンプして驚きます。基本的にこの区間は80キロ規制となっています。

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無事福島空港に到着。90日以上放置していたバモスは無事エンジン始動できました。

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こんなことでもなければ来ることはなかった、『福島空港』。 相次ぐ地方空港の開業には決して前向きではなかったのですが、今度ばかりは福島空港があって助かりました。

新幹線が開通するまでの間、ANAは毎日羽田-福島臨時便を飛ばしてくれました。そのために義母・義弟は新幹線はおろか道路も開通しない3月14日に東京まで避難することができました。そのために翌15日の福島原発の水素爆発により南相馬~飯館区域にかけて大量に降った放射性物質から逃れることができたのです。

<5月8日・【復路】南相馬へ>

5月8日は帰省中の母を迎えに震災後初めて南相馬に向かいました。

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福島西ICを降りて115号線に入ります。

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115号線は90分近くかけて峠を越えますが、途中新緑がきれいでした。

すれ違う車には被災地から戻る自衛隊の装甲車や他県ナンバーのバスなども多く、ここが相馬~南相馬地域への幹線ルートとなっているようでした。

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上の3枚は国道6号線(鹿島付近)の海側の車窓です。テレビでもっと酷い情景を毎日見てきましたが、実際の情景を目の当たりにするとはやりショックです。

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2か月近く動かない常磐線(南相馬付近の踏切)。線路は廃線跡のように錆びつき、うねっていました。

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南相馬市役所は休日も営業し、被災者への義捐金請求などの手続きを受け付けています。東京でも住基ネットで南相馬市の住民票を取得できますが、はやり居住地で手続きするのが早くて便利。

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南相馬は被災当初に比べ人が少しずつ増えているといいますが、それでも異常な雰囲気に包まれていました。外に子供はおらず、自衛隊の被災支援車両ばかりが目立ち、開いている店は通常の1/4程度。入院を受け付ける病院もほとんどなく、これでは義母をこの町に戻すわけにはいきません。

それでもGW以降はイオンやヨークベニマル(ヨーカドーの東北版)が開き、物資は比較的潤沢になってきたようです。

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5月9日、車が揺れるほどの強風の中東京に戻りましたが、途中羽生付近の事故渋滞にはまりました。これがなければ5時間程度ですが結局6時間以上かかってしまい、義母もぐったり。

2011年3月27日 (日)

復興を心から願う・【回想2】気仙沼・釜石・宮古・田老など

東日本大震災により、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された地域の皆さま、その家族の方々に心よりお見舞い申し上げます。


06年に訪れた三陸海岸の思い出です。宮城県の気仙沼に泊まり、翌日三陸海岸を上って田老町にも立ち寄りました。

リアス式の海岸線と海沿いに並ぶ美しい集落が懐かしく思い出されます。津波が押し寄せて家屋が流される状況や、瓦礫と化した街並みを見るのはとても心が痛みます。

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『ホテル観洋』にお世話になりました。湾から上る朝日がとてもきれいでした。

Imgp7222『ホテル観洋』の状況がとても気になりまたが、ウェブサイトから避難された方とスタッフの方の無事が確認されました。ライフラインの復旧まで不自由が続くと思いますが、復興へ向けて心から応援したいと思います。

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気仙沼の市場。とても賑やかでした。

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三陸海岸は気仙沼から八戸まで一本の線路で結ばれていますが、JRの路線名や鉄道会社が途中で変わり複雑です。写真は三陸鉄道の釜石駅。駅そのものはJR釜石駅とひとつになっていてJRの駅舎はすぐ隣。

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2両連結の短いディーゼルカーに乗って海岸線を進みました。

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JR宮古駅

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『浄土ヶ浜』。陸中海岸国立公園に属する三陸を代表する景勝地ですが、津波の後が気になります。

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田老町の防潮堤。10メートルの高さがあって津波に備えましたが、今回の津波はこれを乗り越えて街全体に被害を及ぼしました。テレビ放映された住民インタビューによれば津波の高さは14メートルに上ったといいます。

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田老町の民宿で小休憩。訪れたのは06年3月でまだ寒く、暖かい汁をとても美味しくいただきました。

昭和8年の昭和三陸地震により更地と化した田老街は見事に復興してきれいな街並みをつくりました。
再生への道のりは険しいと思いますが、田老町がまた美しい街並を取り戻すことを信じ、心から復興を願います。

復興を心から願う・【回想1】大震災被災以前の南相馬・相馬・飯館など

東日本大震災により、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された地域の皆さま、その家族の方々に心よりお見舞い申し上げます。


私は妻方の親戚が南相馬や飯舘におり、地震・津波・原発事故の3重の被害をうけました。このような大災害にもかかわらず、避難先の横浜で亡くなった高齢者1名を除き親類縁者のほぼ全員の無事が確認されました。

義母・義弟を東京都内の自宅に受け入れ、その他の親戚は郡山の親戚宅、山形の避難所へ避難。飯舘には一部の親戚が残留し、いわきに在住する親戚があります。

東京に生まれ育った私には故郷と呼べる土地が無く、結婚後多くの人との親交が深まった福島は私の心の故郷です。

■■ 富岡 ■■

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南相馬へ向かう常磐道富岡付近。ここはひび入るなどの被害がありましたが、原発から直線距離で5~6キロというところにあって復旧もままならない状態のようです。

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よくお世話になった富岡のリベラルパークヒルズ(ゴフル場とホテル)。一日も早くこの地に再来できることを願います。

■■ 南相馬 ■■

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相馬の野間追祭場。ここは福島第一原発から20~30キロの範囲にありますが、海岸線から距離があるので津波の被害はなかったと思われます。

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伝統行事「野馬追い」の復興を心から願います。

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南相馬の北泉海水浴場。夏には花火大会があります。
非常に残念なことですが、この地帯は壊滅状態と思われます。

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南相馬の中心、JR原ノ町駅。南相馬市はもともと原町市、小高町など近隣町市が合併してできた市です。

■■ 相馬 ■■

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南相馬から北に上ったところにある相馬市の水産物直売センター。Googleの被災後の衛星写真によれば、この建屋は残っていますが周囲に大きな漁船が何艘もも乗り上げる状況でした。

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相馬の松川浦での潮干狩りのようす(10年5月)。

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潮干狩りの後にアサリご飯をいただいた旭亭。

■■ 飯舘村 ■■

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秋の福島県飯舘村

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秋になるとどの家も軒先に干し柿をつるします。

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山に入ってキノコを摘みました

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しめじ

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春から初夏にかけて、山菜摘みの季節です。

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わらび。わらびのほか、タラの芽、コシアブラなどたくさん摘みました。

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飯舘村はどかな田舎の景色がひろがります。

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飯館村の桜(10年5月)。今年もきっと花を咲かせてくれるでしょう。

 

2011年3月11日 (金)

地震直後の東京都内

お茶の水のオフィスでの打合せ中地震にあいました。

7F建ての5Fですが、最初、振動というよりも左右のユックリとした動きに始まりました。そのうち1メートルほど左右に大きく揺さぶられるようになり、室内の時計、額、パソコンなどが次々と床に落ち始め、立つのも容易でない状況が数分間続きました。

机の下に隠れる人や、事務所の外に出る人などもありました。外をみると他のビルが大きく揺れているのが明らかに確認できました。道路を通行する車も全て停止して様子をうかがっていました。

オフィスは写真の通りパーティションやモニター、書類が散乱する有様。東京では間違いなく過去最大級です。

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避難場所に指定されている東京大学に避難しましたが、ここも大勢の人で溢れていました。ここでも大きな揺れが何度もあり、ビルの窓ガラスがばたばたと音をたてて揺れる状況でとても安全とは思えません。外は危険なのでしばらくの間東大病院内に待機しました。

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交通機関が完全に麻痺し、すし詰めの都バスは渋滞にはまり牛歩状態。タクシーもつかまらないので事務所のあるお茶の水から自宅のある目白付近まで歩きました(写真は17時ごろの目白通り江戸川橋付近)。

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17:30頃の明治通り。普段人通りのない歩道を大勢の人が歩いていました(目白通り千登勢橋から撮影)。車道が空いて見えますが、ここは帰宅方向でないためと思われます。

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目白通り学習院大前(下り車線)。17時半過ぎでこの状況で異常な渋滞です。すし詰めのバスよりも徒歩がはるかに早い状況でした。

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目白駅に待つ人もいますが、運行の見通しは立たず。

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運行の見通しは立たないのですが、トイレを開放していて助かりました。

途中のフォーシーズンホテルにも大勢の人が避難しており、ホテルが避難者のためにテレビを設営するなどして支援していました。とても有り難いサービスです。

自宅に着くと、建物外壁のセコムのセキュリティアラームが付いており、異常状態を示していました。家屋は全く無事でしたが、食器棚からグラス類が落ちガラスが散乱、鉢植えがひっくり返り土が散乱、電気スタンドからパソコンのディスプレーまで転倒、台所は冷蔵庫の扉が開いたままでアラームが鳴りっぱなしで中身が落ち、・・・という惨憺たる状況に言葉もありませんでした。

しかし都内は電気、水道、ガスすべて正常でライフラインは確保されており、自宅に辿りつきさえすれば普段とあまり変わらない生活ができる状況です。

とりあえず家族も含め全員の無事が確認できましたが、福島県在住の親戚の一部に安否がとれない人があって心配です。被災された方、亡くなられた方も多く誠に残念です。
亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたします。

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